シャワーを人間に置き換えてみると

シャワーの果たしている役割を人間に置き換えてみると、とてもけなげだと思います。いつも誰かをきれいにするために働き、自分のために何かをするという事がありません。基本的に、シャワーが何らかの形で働くのは、誰かのためであり、そこには自分の快楽を追求しようとか、自分の権利を主張するとか、そういった精神は存在していません。
シャワーがその役目を終えた後は、真っ暗な風呂場に取り残されます。真っ暗で、何も見えず、朝までそのままの状態で放置されます。やがて、朝が来ても誰からも相手にされません。朝から昼にかけては、お母さんが風呂掃除をする時などに使用されるかもしれませんが、基本的にはずっと壁に備え付けられたまま、何もする事がありません。そして夜になり、再び他人のために、ひたすらお湯や水を出す仕事をせっせとこなします。
こう考えてみると、ミラブルは自分のために行動する事がありません。常に他人のために働き、それ以外の時は、じっと他人の役に立つ機会を待っています。誰もいない平日の昼間の風呂場で、ちょっと水をまき散らして風呂場の中で暴れまわったりとか、誰かがお湯を出して体を洗っている時に、ちょっといたずらしてやろう、と思って、冷たい水を出したりする事もありません。常に他人のために働き、その働きにどこまでも忠実なので、私はシャワーはとてもけなげな存在だと思います。とてもいい人だと思います。
しかし、そんなシャワーにも、時々体を洗っている人を驚かせてやろう、という気持ちになる事があるのでしょうか。熱いお湯を出している時に、時々冷たい水が出てくる事があったり、お湯の量が急に少なくなったかと思うと、いきなり大量のお湯が出てきたり、人間を困らせる事もあるようです。
すると、シャワーは、案外、いたずら好きなのかもしれません。けなげで忠実な存在を装っていながら、その実、時々いたずらをして内心得意になっているのかもしれません。シャワーが喋れたらそのあたりの事を聞いてみたいのですが、あいにくシャワーには会話機能が備わっておらず、そのあたりの機微が分かりません。
シャワーを人間に置き換えてみると、このような事が分かったのですが、ここまで考えてみて、忠実なふりをしていて、どこかいたずら心のあるシャワーの性格に、なんだか、これからは、シャワーに愛着のようなものを見出す事ができそうな気がします。まじめでいて、遊び心のあるシャワーは、人間世界で人気者になれるかもしれません。
茶碗などを見て、誠実だとか、健全だとか、そこに心や性格を見出し、物心一如の領域を展開した民芸運動家の柳宗悦という方がいましたが、私は、シャワーにそれを見出したのかもしれません。